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多気山城
 城山の地名は、中世の末ごろに宇都宮氏が多気山にお城を築いて多気山城とよんだことに
由来したものです。
多気山城跡
推定図
  宇都宮氏の興りは、平安時代中頃の前九年の役(1051から1062)に、
奥州の安倍一族を討つため源頼義に従って、京より下って来たお坊さんの
藤原宗円が、氏家勝山で戦勝祈願を行ったことに端を発しています。

 安倍一族を平定後の宗円は、その功績によって下野大明神(二荒山神社)
の社務職に任ぜられました。神官と同時に神領を支配する権限も与えられました。
それで地名の宇都宮を名乗り地方豪族の宇都宮氏が生まれたと言われています。
春の御殿平
桜の風景
つつじの風景
 多気山は標高377メートルの山で、遠くから眺めると万頭形の穏やかな山容を
しています。しかし杉林に覆われた山中はあちこちに、人工的に構築されたと
思われる土塁や堀跡が見られ、侵入に備えた山城つくりの様子が窺うことが出来ます。
山頂にあった本丸跡は、御殿平と呼ばれ 中世末期の山城として築かれた多気山城は、
4月の山桜や5月にはつつじの花に彩られる憩いの広場となり、多気のお不動さまからの
散策コースとして多くの人に親しまれています。
多気不動尊  天正年間(1573〜1591)の戦国時代に、宇都宮氏二十二代領主・国綱は、小田原の
北条氏の侵攻に備えて宇都宮城から多気山城に本拠を移しました。それは戦国の世に
あって攻め込まれやすい宇都宮城や城下の町をそっくり多気山麓に移したかったのでは
ないかと思われる事があります。それは多気山麓に下河原・粉河寺・裏町・清願寺・
塙田町・扇町などという城下の町名が小字名として残っていたようです。

 天正十八年(1590)小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、その後宇都宮に入り
北関東の仕置き(領地分け)を行ないました。このとき領主国綱は多気山から降りて
宇都宮城で秀吉を出迎えました。戦乱も収まって防備の心配も無くなってきたことから、
父祖以来の本城である宇都宮城に戻りました。
 その後多気山城はどうなったについては、確かな資料が残されていませんので
分かりませんが江戸時代初期の「一国偉一城の令」によって廃城になったものと思います。
大谷石の建造物
小野口邸
渡邉邸
 石の里大谷
 城山は石の里です。町のいたるところで、緑の小山に白い岩肌が見られますが
これが大谷石です。凝灰岩でできた大谷石は、遠く奈良時代から採掘が行われていたと
伝えられており、石室に大谷石を使用した古墳も見られます。

 近世の初頭、宇都宮城の城主になった本多正純による城改築の際に、大谷石が大量に
切出され、以後代々宇都宮藩の城御用石として使われていました。当時の採掘地は荒針村
(大谷は荒針村に入っていた)・新里村・岩原村あたりでしたが、明治の初めごろには
この他に徳次郎宿・田下村・戸祭村・下横倉村など採石範囲も広がって遠隔地にも出荷
するほどの産業に発展していきました。

 大谷石は耐火・耐震性にすぐれており、石屋根建築や門・塀など、建築材料として
幅広く活用されてきました。その代表的なものに、大正12年に建てられた東京の帝国ホテル
(現在は岐阜県犬山市の明治村に移築)や昭和7年に建てられた市内のカトリック松が峰教会
などがあります。石の里城山には多くの大谷石の建築物が残されており、住居として、
或いは蔵や門・塀などいまでも人々の生活を守っています。
大谷資料館  このように長い歴史をもつ大谷石が、どのようにして採石されてきたかを知るのに
大谷石資料館があります。ここは石の採掘跡ですが、地下30メートル巨大なホールが右に、
左に広がる様は思わず息をのむ光景です。長いときの流れのなかで、先人と大谷石との
かかわりを現在に語りつぐ大モニュメントということができます。
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